死んでないのに幽霊になる? 本人も知らない「生霊」は死霊より厄介だった

死んでないのに幽霊になる? 本人も知らない「生霊」は死霊より厄介だった

死んだ人が幽霊になる。まあ、心霊の世界では分かりやすい。

では、本人が今も普通に生きていて、飯を食い、風呂に入り、布団で寝ているのに、別の場所に「その人」が現れたらどうなるのか。

日本には、それを説明する実に厄介な存在がいる。生霊(いきりょう)である。

よく「強い恨みや嫉妬を持つと生霊が飛ぶ」と言われる。しかし調べてみると、昔からの生霊はもっと気味が悪い。本人が「飛ばしてやる」と念じているとは限らない。本人自身が、自分の生霊が出ていることを知らない場合すらある。

「呪ってやる!」と飛ばすものではなかった

代表例が『源氏物語』の六条御息所だ。光源氏への愛執、葵上への嫉妬、車争いで受けた屈辱。そうした感情を抱えるうち、葵上は強烈な物の怪に苦しめられる。

ところが重要なのは、六条御息所が意識して「今夜、葵上に取り憑いてやろう」とやっているわけではない点だ。

立命館大学アート・リサーチセンターの解説では、原作の御息所は、自分が生霊になっているという自覚を持っていない。物の怪を退散させる祈祷で焚かれたケシの実の香りが自分の身体に残っていることから、ようやく「まさか私なのか」と気づいていく。

幽霊を見た人より、幽霊になった本人のほうが事情を知らない。ここが生霊の妙なところである。

眠る平安風の女性から生霊のような半透明の姿が離れていくイメージ
AI生成による解説イメージです。『源氏物語』の特定場面や実在人物、平安時代の建築・衣装を厳密に再現したものではありません。

しかも「憎い」だけではない

国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」を見ると、生霊について各地の民俗資料が残されている。

1939年に記録された和歌山県の俗信には、生霊について「かわいくても憎くても憑く」という内容まである。つまり、少なくともこの俗信では、憎しみだけでなく愛着の側からも「憑く」と考えられていたのである。

さらに大分県の民俗調査には、生霊が「筋」によって子孫へ伝わるとされ、その家筋との結婚を避けたという記録まである。

もちろん、これは生霊の存在が証明されたという資料ではない。「そう信じられていた」という民俗記録だ。しかし逆に考えると怖い。怪異がただの夜話ではなく、現実の結婚判断にまで影響する信仰になっていたのである。

英国では「生きている人の幻影」など702件を収録した

もっと妙なのは、似た発想が日本だけではないことだ。

英国のSociety for Psychical Research(SPR)は1882年に設立された。その中心メンバーだったエドマンド・ガーニー、フレデリック・マイヤーズ、フランク・ポドモアは1886年、『Phantasms of the Living(生きている人々の幻影)』という二巻本を刊行した。

そこには、テレパシーと解釈された実験例、夢、幻視、遠方の人物の出現など、702件の番号付き事例が収録されている。すべてが「人の姿を見た」事例だったわけではない。

日本の生霊とは性格が違い、英国では事故や死などの危機と前後して、遠方の知人の姿や声を知覚したとされる「crisis apparition(危機時の幻影)」も重要なテーマだった。それでも、身体はここにあるのに「本人」が別の場所に現れるという発想は驚くほど似ている。

日本の生霊伝承と19世紀英国の生きている人の幻影を比較したイメージ
AI生成による比較イメージです。日本の生霊伝承と19世紀英国の幻影報告を象徴化したもので、実際の人物・事件・『Phantasms of the Living』収録事例を再現したものではありません。

科学も「誰かがいる感覚」は調べている

では、科学的にはどうなのか。

現時点で、強い感情によって魂や霊体が身体から離れ、遠くの人間に取り憑くことが確認されたわけではない。

一方で、実際には誰もいないのに「そこに誰かいる」とはっきり感じる体験は「felt presence」と呼ばれ、研究対象になっている。

2023年の『The Lancet Psychiatry』のレビューでは、睡眠麻痺、不安、神経学的状態などとの関連だけでなく、極限状態のスポーツやスピリチュアルな集団などでも報告されている。病気の人だけに限定された体験ではない。

つまり科学が確認しているのは「生霊が来た」ことではなく、人間には、明確な感覚的証拠がなくても「誰かがいる」と強烈に感じることがあるというところまでだ。

誰もいない寝室で人の気配を感じて振り返る現代人のイメージ
AI生成による概念イメージです。「felt presence(誰かがいる感覚)」を視覚化したもので、特定の症例や心霊現象の実在を示すものではありません。

生霊が死霊より厄介な理由

調べていて一番引っかかったのはここだった。

死者の幽霊なら「誰の霊なのか」を本人に確認することはできない。当たり前だ。死んでいる。

しかし生霊なら本人に聞ける。

「昨日の夜、俺の枕元に来なかった?」

当然、相手は「行ってない」と答えるだろう。

ところが『源氏物語』型の生霊観では、その否定が反証にならない。本人自身が知らないうちに出ることがあるからだ。

これは怪異として実に強い設定である。本人が否定しても終わらない。寝ていても終わらない。死んでいる必要すらない。

だから生霊は「生きている人間そのもの」より、その人が制御できない感情を怖がる怪異なのかもしれない。

【編集者が思うこと】

俺は幽霊より、この「本人も知らない」という設定のほうが嫌だな。

死んだ人なら、怖いけれど話としては分かる。でも生霊は、夜中に枕元へ出てきた人と翌日の昼間に普通に会える。向こうは「おはよう」なんて言ってくる。こっちは昨夜そいつを見ている。しかも本人には記憶がない。

さらに調べると、日本だけの発想でもなかった。19世紀の英国で、「生きている人の幻影」を含む奇妙な体験が700件を超えて整理されている。

科学的に生霊が確認されたわけではない。でも「そこにいない人を、いると感じる」という人間の体験自体は研究されている。結局いちばん気味が悪いのは、霊がいるかいないかより、人間が昔から何度も同じような体験を語ってきたことなのかもしれない。

参考資料

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