嫌いだった人間の死で、なぜ心が軽くなるのか
昔の職場で散々嫌な思いをさせられた上司、どうしても反りが合わなかった同僚、こちらを見下していた人間。何年も会っていなくても、そういう人物は妙に記憶の中に残り続ける。

ところが、ある日「そういえば、あの人亡くなったらしいよ」と風の知らせが届く。

普通なら「それは気の毒だ」と思うところなのだが、心の奥では別の反応が起きることがある。
妙にスッキリするのである。
もちろん、人が死んだこと自体を喜んでいるわけではない。大きいのは、「もう二度と会うことがない」という事実だ。
嫌な思い出が「現在形」ではなくなる
嫌いな人物がどこかで生きている限り、わずかながら可能性が残っている。偶然再会するかもしれない。共通の知人から名前を聞くかもしれない。何かの拍子に再び関わるかもしれない。
つまり、その人物は過去の人間でありながら、完全には過去になっていない。
ところが死を知った瞬間、その可能性がゼロになる。
「ああ、これで本当に終わったんだ」
この感覚によって、それまで嫌な感情とセットだった記憶が、単なる昔話へ変わっていく。
記憶そのものが消えるわけではない。ただし、記憶についていた毒が抜ける。だから妙に爽快なのである。
そして、少しだけ「勝った」気分になる
さらに人間には、なかなか口に出しにくい感情がある。
「結局、俺はまだ生きている」という感覚だ。

相手を論破したわけでもない。謝罪させたわけでもない。出世競争で勝ったわけでもない。
それでも、自分は相手に潰されず、その後も普通に飯を食い、酒を飲み、仕事をし、好きなことをやって生きている。一方、その人物との物語は完全に終了した。
すると妙なところで、「最終的には俺が残ったな」という、小さな勝利感が生まれる。
これは立派な感情とは言えないかもしれない。しかし、人間の感情なんて、そもそもそんなに品行方正にはできていない。
究極の小悪魔戦術――葬式に普通に現れる
さらに少々性格の悪い発想をすると、面白い展開もある。
もし、その人物の葬儀に出席できる立場だったらどうするか。

そこで恨み節を言ったり、勝ち誇った顔をしたりすれば当然こちらの負けである。
逆だ。
誰より普通に、誰より礼儀正しく振る舞う。
遺族には静かに頭を下げ、「お世話になりました」「ご冥福をお祈りします」とだけ伝える。過去の揉め事など一切口にしない。
すると、事情を知っている昔の同僚は内心こう思うかもしれない。
「あれだけ嫌な思いをさせられたのに、よく来たな」
「意外とあいつ、人間できてるな」
ここで何とも小悪魔的な逆転現象が起きる。
生前、自分の株を下げた嫌な人物の葬儀によって、最後に自分の株が上がるのである。
ただし、本当に勝つ人間は芝居をしすぎない
もちろん、葬儀は遺族が故人を送る場所であり、自分の復讐劇を演じる舞台ではない。露骨に評判を稼ごうとすれば、むしろ周囲には簡単に見透かされる。
だから、この「仕返し」が成立するとすれば、何もしないことが条件になる。
悪口を言わない。過去を蒸し返さない。自慢もしない。礼だけ尽くして静かに帰る。
そして帰り道で、心の中だけでこう思えばいい。
「まあ、いろいろあったけど、俺はまだこっちで楽しくやってるよ」
嫌いな人間への最大の復讐とは、相手を憎み続けることではない。
相手がいなくなったあと、自分だけは何事もなかったように人生を続けることなのかもしれない。
そう考えると、死者に石を投げる必要などない。
最後まで礼儀正しく生き残る。
かなり性格の悪い言い方をすれば、それこそ最も上品で、最も誰にも文句を言われない「完全勝利」なのである。
【編集者が思うこと】
会社を辞めて15年以上。ムカついた先輩や上司も、今では生きてるのか死んでるのかさえ分からない。昔はM島の葬式には白ネクタイで行ってやると思っていた。でも今なら黒で行くかな。礼儀正しく頭を下げて、心の中だけで「俺はまだ元気にやってるよ」と笑う。その方が、たぶん一番気持ちいい。