認知症。
そう聞けば、多くの人は「なりたくない」「怖い」「人生の終わりだ」と思う。
確かに、記憶を失い、家族の顔が分からなくなり、自分がどこにいるのかさえ曖昧になる。介護する家族の負担も大きい。医学的には病気であり、決して美化できるものではない。
だが、少しだけ視点を変えてみたい。
人間という生き物は、妙に頭が良すぎる。
犬や猫が「あと20年で俺は死ぬのか」と布団の中で絶望しているとは考えにくい。
ところが人間は違う。
50歳になれば老後を考え、70歳になれば残り時間を数え、病気になれば「死ぬ瞬間とはどんなものか」まで想像する。
つまり人間は、まだ起きてもいない自分の死を、頭の中で何度でも先取りできる生き物なのである。
これは知性の特権であると同時に、かなり残酷な能力だ。
そこで、少し不謹慎な仮説を置いてみる。
もし人生の最後に認知機能が弱くなり、「昨日」「明日」「10年後」という時間の感覚まで曖昧になっていくとしたら、それは単なる喪失なのだろうか。
あるいは――
死を理解しすぎる人間に用意された、最後の麻酔なのではないか。
もちろん、これは医学の話ではない。
認知症になれば不安、混乱、怒り、孤独が強くなる人もいる。本人にも家族にも過酷な現実がある。
だから「認知症は神様からの贈り物だ」などと簡単に言うべきではない。
それでも不思議なのだ。
人間は生まれた瞬間、自分が誰なのか知らない。
そして人生の終盤、一部の人は再び、自分が誰なのかを少しずつ忘れていく。
人生の入口と出口だけ、どこか似ている。
若い頃は「もっと金が欲しい」「もっと偉くなりたい」「もっと長く生きたい」と、自我を巨大化させながら生きる。
ところが最後には、その自我そのものが少しずつほどけていく。
名前も、肩書も、財産も、過去の恨みも、未来への恐怖も。
もしそう考えるなら、認知症とは人生最大の不幸であると同時に、ある人にとっては“自分という存在への執着”から少しずつ離れていく現象にも見える。
死を真正面から理解したまま最期まで進むのか。
それとも、死という概念そのものを少しずつ忘れていくのか。
どちらが幸せなのかは、誰にも分からない。
ただ一つ言える。
人間は「何も分からなくなること」を異常に恐れる。
だが人生の最後まで、すべてを理解していることが本当に幸福なのか。
もしかすると私たちは、
死ぬことよりも、死を理解できる頭を持ってしまったことのほうが、ずっと残酷なのかもしれない。
【管理者が思うこと】
アルツハイマーになるのは、老いて死を迎える恐怖から人間を少しずつ解放するために、神が与えてくれた最後のお恵みなのかもしれません。