認知症。
そう聞けば、多くの人は「なりたくない」「怖い」「人生の終わりだ」と考えるのではないだろうか。
記憶が薄れる。できていたことが難しくなる。進行すれば、家族の顔が分からなくなったり、自分がいる場所が分からなくなったりすることもある。
本人だけでなく、介護する家族にも大きな負担がかかる場合がある。
だから認知症を美化するつもりはない。
しかし、ここで一つ妙な疑問が残る。
私たちは、認知症になった本人より先に「そんな人生は不幸に決まっている」と決めていないだろうか。

そもそも認知症は「何も分からなくなる病気」ではない
まず、ここから整理しておきたい。
認知症は一つの病名ではない。
アルツハイマー病、脳血管疾患、レビー小体病など、さまざまな病気によって認知機能が低下し、日常生活に支障が生じる状態を指す。
WHOも、認知症は記憶だけでなく、思考や判断、日常生活を行う能力などに影響する状態であり、通常の加齢そのものではないとしている。
しかも症状も進み方も人によって違う。
認知症になった瞬間、その人の人格、感情、意思、幸福感が全部消えるわけではない。
日本では65歳以上の約443万人が認知症と推計されている
認知症は、一部の特殊な人だけの話でもない。
厚生労働省が公表している推計では、2022年時点で65歳以上の認知症の人は約443万人。
軽度認知障害(MCI)は約559万人と推計されている。
合わせると1000万人を超える。
さらに現在の有病率が続くと仮定した推計では、2040年には認知症の高齢者が約584万人になると見込まれている。
つまり認知症は、珍しい「誰かの病気」というより、老後を考えるうえで無視できない現実になっている。
だからこそ、
「認知症になったら人生終了」
という一言だけで片付けるには、当事者の数があまりにも多い。
国も「認知症=何もできなくなる人」という考え方を変え始めた
2024年1月、日本では「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」が施行された。
この法律には、かなり重要な考え方が書かれている。
認知症になっても、本人が尊厳を保ち、希望を持って暮らせる社会を目指すというものだ。
さらに政府が2024年12月に決定した認知症施策推進基本計画では、「新しい認知症観」という考え方が示された。
誰でも認知症になり得る。
そして認知症になったあとも、できること、やりたいことがあり、住み慣れた地域で自分らしく暮らすことができる。
昔のような、
「認知症になったら何も分からない」
「本人の意思を聞いても仕方がない」
という見方から、国の政策そのものが変わりつつある。
他人から見た「不幸」と、本人が感じる「不幸」は同じなのか
ここからが、私が一番気になったところだ。
認知症になった人の生活を外から見ると、失われたものばかりが目に入る。
仕事ができなくなった。
一人で外出できなくなった。
昨日の出来事を覚えていない。
家族の名前が出てこない。
だから周囲は、
「本人はものすごく不幸なはずだ」
と思う。
しかし認知症のQOLを研究した報告を見ると、興味深いことが分かる。
認知症の人自身による生活の質の評価と、介護者など周囲の人が評価した生活の質にはズレが生じることがある。
研究レビューでは、認知症の人自身がQOLを回答できるケースも多く、可能であれば本人による評価を重視すべきだとされている。
つまり、
外から見て「自分なら耐えられない」と思う人生と、その人生を実際に生きている本人の感覚は、必ずしも一致しない。
これは認知症に限らず、人間の幸福を考えるうえでかなり不思議な話だと思う。

認知症でも「楽しい瞬間」はなくならない
認知症の幸福感やQOLに関する研究では、人とのつながり、社会参加、好きな活動、自分らしさを保てることなどが、より良いQOLと関連することが報告されている。
2025年の研究レビューでも、社会とのつながり、本人の興味に合わせた活動、音楽、自然、過去の経験や強みを生かすことなどが、認知症の人のウェルビーイングに関係する要素として挙げられている。
つまり昨日のことを覚えていなくても、
今日食べたプリンがおいしい。
好きな歌を聴いて楽しい。
誰かと一緒にいて安心する。
犬をなでて気持ちいい。
そういう「今、この瞬間の感情」まで無意味になるわけではない。
2024年の研究レビューでは、認知症の人における幸福やポジティブな感情について、「過去や未来」だけではなく、その瞬間に本人が感じている幸福を測ることの重要性も論じられている。
ここで、人生というものを少し変な角度から考えたくなる。
人間は「まだ起きていない死」を何度でも体験できる
人間という生き物は、妙に頭が良すぎる。
犬や猫が、夜中に突然目を覚まして、
「俺もあと十数年で死ぬのか……」
と天井を見つめて絶望しているとは考えにくい。
ところが人間は違う。
50歳になれば老後を考える。
70歳になれば残り時間を数える人もいる。
病気になれば、自分の葬式まで想像できる。
実際には一度しか死なないのに、頭の中では何百回でも自分の死を先取りできる。
知性はすばらしい。
しかし、この機能だけはかなり残酷だ。
では認知症は「死への恐怖を消す最後の麻酔」なのか
ここで、元の記事を書いたときに私が考えた仮説へ戻る。
もし人生の終盤、記憶だけでなく過去と未来を結びつけて考える力も弱くなっていったら。
「あと何年生きられるのか」
「死んだらどうなるのか」
という未来への恐怖も、同じように薄れていくことがあるのではないか。
そう考えると私は、
認知症は、死を理解しすぎる人間に用意された「最後の麻酔」のようにも見える。
ただし、ここには大きな注意書きが必要だ。
これは医学的に証明された説明ではない。
認知症では、不安、抑うつ、怒り、混乱などが生じることもある。
死への恐怖が認知症の進行によって都合よく消えていく、と医学的に一般化することもできない。
「認知症になれば死が怖くなくなるから幸せだ」などという話でもない。
これはあくまで、老いと死と記憶を考えたときに浮かんでくる哲学的な仮説である。

人生の入口と出口は、少し似ている
それでも不思議なのだ。
人間は生まれたとき、自分の名前も知らない。
職業も知らない。
財産も肩書きもない。
明日の予定も、自分がいつか死ぬことも知らない。
そして長い人生をかけて、
自分は誰なのか。
何を持っているのか。
誰より偉いのか。
誰に腹を立てているのか。
あと何年生きられるのか。
そんな「自分」を大量に作っていく。
ところが人生の終盤、一部の人はその情報を少しずつ失っていく。
名前。
肩書き。
過去。
未来。
人間関係。
場合によっては、自分が老人であることさえ曖昧になる。
人生の入口ではまだ「自分」ができていない。そして出口では、その「自分」が少しずつほどけていく人もいる。
そう眺めると、入口と出口だけが妙に似て見える。
「何も分からなくなる=最大の不幸」は誰が決めたのか
もちろん、自立できなくなることは大きな喪失だ。
認知症の介護で疲弊する家族がいることも現実である。
WHOも、認知症が本人だけでなく家族や介護者、社会に身体的・心理的・経済的な影響を及ぼすとしている。
だから「認知症になっても幸せだから問題ない」などとは到底言えない。
しかし反対に、
認知能力が低下した人の人生には、もう幸福が存在しない。
とも言い切れない。
会話ができる。
好きなものを食べる。
音楽を楽しむ。
誰かに手を握られて安心する。
笑う。
それが本人にとって幸福なら、外から「そんなものは本当の幸福ではない」と否定する権利が、私たちにあるのだろうか。
認知症より怖いのは「認知症になったら人間ではなくなる」という思い込みかもしれない
認知症そのものは怖い。
これは否定しない。
私だって、できればなりたくない。
だが、もう一つ怖いものがある。
認知症になった瞬間、その人を「もう何も分からない人」として扱ってしまう社会だ。
現在の認知症基本法が本人の意思、尊厳、社会参加を重視しているのも、この問題と無関係ではない。
本人が話せるなら聞く。
選べるなら選んでもらう。
できることまで奪わない。
認知症になっても「その人」は残っている。
その発想の方が、「かわいそうな人」と決めつけるよりずっと人間的だと思う。
結論――認知症は人生最大の不幸なのか
答えは、おそらく誰にも決められない。
認知症には現実の苦痛がある。
失うものもある。
本人が苦しむこともある。
家族が限界になることもある。
だから美談にはできない。
しかし、認知症になった人の人生を外から眺めて、
「全部分からなくなった。だからこの人の人生は最大の不幸だ」
と決めるのも違うのではないか。
もしかすると人間は、記憶を失うこと以上に、「記憶を失った自分は不幸に違いない」と、まだ元気なうちから想像できてしまうことに苦しめられているのかもしれない。
そして私は、やはりあの奇妙な想像を完全には捨てられない。
人生の最後に「自分」が少しずつほどけていくことを、ただの喪失と呼ぶべきなのか。
死を最後まで理解したまま進む人生と、過去や未来への執着が少しずつ薄れていく人生。
どちらが幸せなのか。
たぶん、それを元気な私たちだけで決めてはいけないのだ。
【編集者が思うこと】
私は今でも、認知症を「死への恐怖から少し離れていく最後の麻酔」のように考えてしまうことがある。ただ、今回あらためて調べてみて、その考え以上に気になったことがあった。認知症の本人が不幸なのかを、認知症ではない側が勝手に採点していることだ。昨日を忘れても、今日うまいものを食べて笑えるかもしれない。明日の予定が分からなくても、今ここにいる人を好きだと思えるかもしれない。人生の価値は、どれだけ覚えているかだけで決まるのだろうか。認知症そのものより、私はそっちの疑問の方が気になってきた。
参考資料
- 厚生労働省「認知症施策」
- 厚生労働省「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」
- 厚生労働省「認知症施策推進基本計画」
- 厚生労働省「認知症及び軽度認知障害(MCI)の高齢者数と有病率の将来推計」
- World Health Organization「Dementia」
- Martyrほか「Living well with dementia」
- Durganteほか「Mechanisms of change in subjective wellbeing of people with dementia」
