警察官21人が包囲、なのに室内は0人!?――西口彰逮捕の夜、警察は何をしていたのか

警察官21人が包囲、なのに室内は0人!?――西口彰逮捕の夜、警察は何をしていたのか

1964年1月3日、熊本県玉名市。5人を殺害して逃亡していた西口彰は、宗教家・古川泰龍の家で逮捕された。

逮捕のきっかけは、小学5年生の少女が偽弁護士の正体を疑ったことだった。家族から通報を受けた警察は非常招集をかけ、最終的に21人の警察官が古川家の周囲を警戒した。

ところが、1964年2月4日の国会会議録を読むと、妙な事実が出てくる。

警察官は21人いたのに、連続殺人犯が泊まっている家の中に配置された警察官は、なんと0人だった。

しかも、県警本部からは室内にも警察官を配置するよう指示が出ていたという。

もし犯人が家族に襲いかかっていたら、どうするつもりだったのか。警察は何を考え、現場では何が起きていたのか。当時の国会答弁から、逮捕の夜を調べ直してみた。

午後11時30分の通報から、午前4時まで何があった?

まず、1964年2月4日の参議院法務委員会で、警察庁長官・江口俊男らが説明した経過を時刻順に並べてみる。

日時 警察側の動き
1月2日 23時30分ごろ 古川家の妻と娘が元派出所を訪れ、警察へ連絡
1月3日 0時ごろ 警察官2人が旅館「有明荘」で妻と打ち合わせたと説明
1時30分ごろ 最初の警察官5人が家の外側を警戒
1時50分ごろ さらに4人が到着
その後 さらに12人が加わり、屋外警戒は計21人に
4時ごろ 警察官が家のガラス戸をノックし、屋外で警戒していることを古川に知らせる

この表は国会答弁から当サイトが再構成したものだ。午前0時ごろの打ち合わせも警察庁長官の説明に基づくもので、正確な分単位の時刻ではない。

通報から最初の屋外警戒まで約2時間。そこから家の中にいた古川本人への合図まで約2時間30分。合計すると、通報から合図までは約4時間30分になる。

ただし、「4時間30分、警察は家族と一切連絡しなかった」と書くのは正確ではない。午前0時ごろ、警察官が古川の妻と旅館で打ち合わせたという答弁があるからだ。

問題は、警察が動いていたかどうかではなく、殺人犯のいる家の中にいた古川本人へ、警戒態勢が伝わったのが午前4時ごろだったことだ。


昭和39年の夜、木造家屋の外で警戒する複数の警察官と、障子越しに見える家族の姿を描いた劇画
1964年1月3日未明、警察は古川家の屋外を警戒したが、室内への警察官配置は実施されなかった。画像はその状況を表した創作イラスト。手前の眼鏡の男性は架空の人物で、西口彰本人ではない。実際の家屋・人物・配置を再現したものではない。

本部は「中に入れ」、現場は「外から守る」

そもそも、なぜ警察官は室内に入らなかったのか。

国会で江口警察庁長官は、県警本部の捜査一課長が室内での張り込みを指示していたと説明した。目的は家族を直接守り、犯人の逃走を防ぎ、本人と確認でき次第逮捕することだった。

ところが現場は、その指示を実行しなかった。

警察庁刑事局長・日原正雄によると、深夜の建物では物音が響きやすく、警察官が出入りすれば西口に気づかれる危険があった。犯人が察知すれば、自殺、家族への加害、逃走などが起きるおそれも考えられていた。

建物は比較的小さく、外から近くを警戒すれば内部の様子も把握できる。そう判断して、室内への配置を見送ったという説明だった。

なるほど、室内に入れば必ず安全だったとは言い切れない。警察側にも、犯人を刺激しないための理由があったわけだ。

しかし、ここには厄介な矛盾がある。

家族を守るために室内へ入るという指示と、家族を危険にさらさないために室内へ入らないという判断が、同じ事件で並立していた。

どちらが最善だったかは、当時の家屋の構造や現場の状況を完全に把握しなければ断定できない。ただ、結果的に室内配置が行われなかったことは、警察庁長官自身が国会で認めている。

もっと妙なのは「室内に4人いた」という報告だ

ここからが、今回調べていて一番驚いた部分である。

国会で稲葉誠一議員が追及すると、江口警察庁長官は、逮捕直後に警察庁へ届いた最初の報告について説明した。

その内容は、室内に警察官4人を配置していたというものだった。

ところが実際には、室内配置は行われていなかった。この報告は同じ日のうちに訂正された。

当時の説明を整理すると、次の3段階になる。

県警本部の指示=室内に配置せよ。現場での実行=0人。警察庁への最初の報告=室内に4人。

つまり、指示と実行が食い違っただけではない。実行と報告まで食い違っていたのである。

さらに国会では、逮捕後、警察官が古川の妻に対し、室内に警察官がいたように説明してもらえるとありがたい、という趣旨の発言をしたらしいとの調査結果まで明らかになった。

ただし、ここから直ちに「警察組織ぐるみの隠蔽だった」と断定することはできない。江口長官は、当初の報告が指示を実行したと思い込んだことによるものだったとの説明を受け、改めて調査を重ねたと述べている。

それでも、事実と異なる説明を求めたと受け取れる言動があったという点は重い。単なる張り込み方法の違いとは、別の問題だからだ。


昭和39年の警察本部をイメージした会議室で、幹部らが赤鉛筆と報告書を使い記録を確認している劇画
西口彰逮捕後、警察庁への最初の報告には室内に警察官4人を配置したとあったが、実際には配置されていなかった。画像は報告内容の確認作業を表した創作イラストで、実在の警察幹部・会議室・報告書を再現したものではない。

逮捕できたから、結果オーライなのか?

国会で国家公安委員長の早川崇は、警察側は西口本人であるとの確認に時間を要したと説明した。容疑者の人権を尊重しながら、迅速な逮捕も求められるという難しさにも触れている。

一方で、連続殺人犯と思われる人物を泊めた古川家の恐怖は理解できるとし、警察の措置には改善すべき点があることも認めた。

古川は事件後、感謝状を受け取るために上京した際、早川に直接不満を伝えていたことも国会で確認されている。

これは単に逮捕の手柄を誰が取ったかという話ではない。

通報に協力した家族の安全を、誰が、どのような方法で守るのか。そして、現場で何が行われたかを正確に報告できるのか。そこが問われていたのだ。

西口事件の後、警察の広域捜査制度は変わった

実は、この事件は後の警察制度にも影響している。

警察庁『平成12年警察白書』によれば、1964年4月、「広域重要事件特別捜査要綱」が策定された。その契機になったのが西口事件だった。

これは、都道府県をまたぐ重要事件について、警察庁が事件を指定し、関係する都道府県警察の捜査を調整する仕組みである。

西口が福岡、静岡、東京などを移動しながら犯行を重ねたことは、当時の広域捜査の課題を浮き彫りにした。

ただし、この要綱は広域捜査の連携を強化する制度であり、古川家で問題になった「室内に警察官を配置するか」という現場判断を直接規定したものではない。逮捕時の家族保護の問題と、全国的な捜査体制の改革は分けて考える必要がある。

逃亡犯を逮捕できたことは事実。しかし、その成功が捜査のすべてを正しかったことにはしない。西口事件は、警察自身にも大きな宿題を残したのである。

【編集者が思うこと】

俺が引っかかったのは、21人も集まったというのに、家の中には警察官が1人もいなかったことだ。

もっとも、夜中に警察官がぞろぞろ入っていけば、犯人が気づいて何をするか分からない。そこは警察の説明も理解できる。

でも、それならなおさら、家の中にいる人間の恐怖をどう扱うのか。外に何人配置したかだけでは、安心できるものでもないだろう。

そして、俺がもっと嫌な気分になったのは、逮捕後の報告だ。室内は0人だったのに、最初は4人いたことになっていた。しかも、そのように説明してほしいと受け取れる話まで出てくる。

現場で判断が食い違うことはあるだろう。だが、失敗したかもしれない判断を、後から成功したことにしてしまったら、次の事件で何を直せばいいのか分からなくなる。

詐欺師は肩書を利用して人を信用させる。警察は本来、事実に基づいて人から信用されなければならない。そこを取り違えたら困るのだ。

結局、犯人を捕まえたから万事解決、ではない。俺なら、まず家族が無事だったことに胸をなで下ろす。そして、その幸運に甘えていなかったかを考える。

ちょっと分かりにくい用語

広域重要事件特別捜査要綱
1964年4月に警察庁が策定した、都道府県をまたぐ重要事件の捜査を調整するための要綱。西口事件が策定の契機になったと警察白書に記されている。

少女が止めた78日間――西口彰事件の真相・全4回

偽弁護士を疑った小学5年生の少女。少女の発見、西口彰の詐欺と逃亡、逮捕時の警察対応、そして逮捕後の古川家との関係まで、4つの視点で事件を検証します。

参考資料

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