たった1,176台の宇宙船!? コスモスポーツが「悪魔の爪痕」に挑んだ理由【第1部】

たった1,176台の宇宙船!? コスモスポーツが「悪魔の爪痕」に挑んだ理由【第1部】

1967年5月30日、東洋工業(現マツダ)は、まるで宇宙船のような2人乗りスポーツカーを発売した。マツダ・コスモスポーツである。

全高わずか1,165mm。小さなボンネットの下には、491cc×2ローター、110PSのロータリーエンジン。最高速度185km/h、0→400m加速16.3秒。当時の国産車としては異色の存在だった。

ところが翌1968年には128PSへ進化。ドイツの84時間耐久レースで総合4位に入賞した。それほどの技術的成果を残しながら、1972年までの総生産はマツダ公表値でわずか1,176台だった。

6年かけて開発し、発売翌年に大改良。それなのに1,176台しか造らなかった。マツダは、いったい何のためにこのクルマを生み出したのか?

1967年のマツダ・コスモスポーツをイメージした昭和の道路の走行風景1967年登場のマツダ・コスモスポーツをイメージした走行風景。車両の細部や道路環境は創作を含む。(AI生成イラスト)

世界初ではない。それでもマツダは挑んだ

ロータリーエンジンそのものを最初に市販車へ搭載したのはマツダではない。1964年、西ドイツのNSUがシングルローターの「バンケル・スパイダー」を発売している。

マツダが実現したのは、世界初となる2ローター・ロータリーエンジン搭載市販車だった。

1961年7月、東洋工業はNSU社・バンケル社と技術提携。当時、乗用車メーカーとして発展途上にあったマツダは、独立した企業として生き残るため、他社にない技術を必要としていた。

しかし、そこで待っていたのが「悪魔の爪痕」である。

エンジンの内壁を削る「悪魔の爪痕」

ロータリーエンジンは、三角形に近いローターがハウジング内部で回転する仕組みだ。ローターの各頂点には、燃焼室を密閉するアペックスシールが取り付けられている。

開発中、運転を続けるとハウジング内壁に波状の摩耗痕が現れた。これがチャターマーク、通称「悪魔の爪痕」だ。

密閉性と耐久性を左右する部分だけに、放置すれば量産エンジンとして成立しない。

マツダは高強度カーボン材にアルミニウムを含浸させたシールを開発し、この問題の克服に成功した。単にエンジンを回すだけでなく、長く使える材料を見つける必要があったのである。

ロータリーエンジンの三角形ローターとアペックスシール、ハウジング内壁の摩耗を表した模式イラストロータリーエンジンの基本構造をイメージした模式図。ローター先端のアペックスシールと、ハウジング内壁の摩耗問題を表現。実際の10A型エンジンの精密断面図ではない。(AI生成イラスト)

試作車60台で60万km。それでも足りなかった

1963年の全日本自動車ショウには松田恒次社長が試作車で乗りつけ、1964年にはコスモが正式発表された。しかし市販開始まで、さらに約3年を費やしている。

1965年には三次自動車試験場が完成。1966年には全国の販売店へ試作車60台を配り、公道で合計60万kmの委託テストを実施した。

単純計算すると、60台で60万km、1台平均1万km。それだけの距離を、実際の道路で走らせていたことになる。

なお、マツダ公式資料には開発時の総試験走行距離について「70万km」と「300万km」の異なる記述がある。両者の集計対象の違いは資料から確定できないため、ここでは数字を混同しない。

発売時には主要動力伝達系統に2年または5万kmの保証も設定された。未知のエンジンを売る以上、信頼性への不安を払拭する必要があったのだろう。

110PSから128PSへ。実は馬力より大きな変更があった

1968年7月、コスモスポーツはL10A型からL10B型へ進化した。ここで当時のカタログ資料を比較してみる。

項目 前期L10A 後期L10B
最高出力 110PS 128PS
最大トルク 13.3kgf・m 14.2kgf・m
ホイールベース 2,200mm 2,350mm
変速機 4速MT 5速MT
車両重量 940kg 960kg
最高速度(公表値) 185km/h 200km/h
0→400m加速(公表値) 16.3秒 15.8秒

最高出力は約16.4%増加。一方で重量増は約2.1%。1PS当たりの車両重量は8.55kgから7.50kgへ改善している。

それ以上に注目したいのは、ホイールベースを150mm、約6.8%も延長したことだ。

販売店から寄せられた出力不足や直進安定性への指摘を受け、タイヤの15インチ化、ブレーキ強化、5速化まで実施。後期型は単なるパワーアップ版ではなく、高速走行への対応を進めた大改良型だった。

84時間で9,760km。ところが1台は完走できなかった

1968年8月21日、ドイツ・ニュルブルクリンクで「マラソン・デ・ラ・ルート84時間耐久レース」がスタートした。

マツダはL10Bをベースにしたレース仕様車2台を投入。参加59台とするマツダの公式記録の中で、ポルシェやランチアを相手に戦った。

結果は19号車が総合4位で完走。一方、日本人ドライバーが乗る18号車は82時間を過ぎてリタイアした。

ただし、そのリタイア原因が重要だ。マツダの後年の公式記事では「リアタイヤが外れるトラブル」と説明するが、1968年当時の東洋工業の英文発表には、左後輪のシャフト破損と記録されている。少なくとも、ロータリーエンジン本体の破損が直接原因ではなかった。

1968年ニュルブルクリンク84時間耐久レースに挑戦する18号車のコスモスポーツを題材にした歴史再現イラスト1968年ニュルブルクリンク84時間耐久レースを題材にした再現イラスト。18号車は終盤にリタイアし、総合4位で完走したのは19号車。競技車の装備・塗装や周囲の車両、走行場面には創作を含む。(AI生成イラスト)

ここで当時の資料を突き合わせると、もう一つ妙な数字が見つかった。19号車の実走記録は345周・9,760km。しかし1周のペナルティを受け、当時の東洋工業発表では344周・9,732kmとなっている。

さらに競技記録にある84時間14分33秒で実走9,760kmを割ると、ピット作業を含む平均速度は約115.8km/h。3日半にわたって、これだけのペースで走った計算になる。

84時間という過酷な試験で1台が最後まで走り切ったことは、マツダがロータリーの耐久性を世界へ示す重要な成果だった。ただし、1レースの結果だけで量産車すべての長期耐久性が証明されたわけではない。

たった1,176台。それでも失敗とは限らない

コスモスポーツの発売価格は148万円。月産20台程度のペースで生産を開始し、1972年に生産を終えた。

1967年5月の発売から1972年9月の生産終了までを65か月と数えると、マツダ公表の総生産1,176台は月平均約18.1台。これは月別の実績ではなく、生産規模を理解するための概算である。

マツダの公式資料は、コスモスポーツをロータリー普及のためのイメージリーダーと位置付けている。その後、1968年のファミリアロータリークーペ、1970年のカペラ、1971年のサバンナへと搭載車種が広がった。

1,176台という数字は、コスモスポーツ単独では小さい。しかし、その後のロータリー車の展開まで考えると、販売台数だけで成功・失敗を判断できない。

もっとも、開発費や車種別採算の詳細は確認できない。コスモスポーツ自体が利益を上げたかどうかは、別の問題である。

【編集者が思うこと】

俺が引っかかったのは、1,176台という数字よりも、発売わずか1年でホイールベースを150mmも伸ばしたことだ。

普通なら「もう少し最初から詰めておけよ」と言いたくなるところだが、まったく新しいエンジンに、初めての本格スポーツカー。そりゃ、やってみなければ分からないことも多かっただろう。

それにしても、月に20台ほどのクルマを造るために、ここまでの試験を重ねて海外の84時間耐久レースにまで挑む。採算だけ考えたら、実に妙な話である。

でも、マツダが本当に売りたかったのは、コスモスポーツの1,176台だけではなく、ロータリーという新しい技術そのものだったのかもしれない。

次回は、そのロータリーが一気に大衆車へ広がり、やがて石油危機に直撃される話。夢のエンジンが、今度は会社を苦しめることになる。

ちょっと分かりにくい用語

アペックスシール
ロータリーエンジンのローター先端に取り付けられる密封部品。燃焼室の気密性を保つ重要な役割を持つ。
チャターマーク
接触部の振動や不安定な摺動などに伴って生じる波状の摩耗痕。マツダの初期ロータリー開発では、ハウジング内壁に発生する深刻な問題だった。

マツダロータリー 7部作

1967年のコスモスポーツからコスモAP、ユーノスコスモ、RX-7、RX-8、そしてロータリーの復活まで。マツダが挑んだ夢と現実を、開発史、性能比較、販売実績、当時の記録、独自計算から全7部で検証します。

参考資料

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