長野県の山中を、地面が動いているような黒い塊が埋め尽くす。よく見ると、その正体はニホンジカだった。2026年8月、南アルプスの二児山北側、大鹿村と伊那市の境付近で、ヘリコプターから数百頭規模のシカの群れが撮影された。
場所を聞いて「大鹿村なら、そりゃ鹿も多いだろう」と思った人もいるかもしれない。確かに名前だけなら出来すぎている。しかし調べてみると、大鹿村と鹿の関係は、単なる駄洒落では終わらなかった。
「大鹿村」という名前は、巨大な鹿から付いたわけではない
大鹿村は、1874年に大河原村と鹿塩村がいったん合併して成立した。その後1882年に再び二つの村へ分かれたが、1889年に再合併して現在に至っている。一般に「大河原」の「大」と「鹿塩」の「鹿」を合わせた合成地名とされている。つまり「大きな鹿がいたから大鹿村」という由来ではない。
ところが興味深いのは、片方の鹿塩(かしお)である。この地名は明治時代に突然作られたものではなく、鎌倉時代の史料にも大河原・鹿塩の名が確認される古い土地だ。鹿塩地区には現在も塩分を含んだ水が湧く鹿塩温泉があり、村では、鹿が好んで舐める湧き水から塩分が発見されたという伝説も紹介している。
さらに地元には、昔からこの一帯に野生の鹿が多かったことと塩泉を結びつけて「鹿塩」の名を説明する伝承も残る。語源には複数の説があるため断定はできないが、少なくとも鹿という動物が昔からこの土地の文化や伝承と深く結びついていたことは確かだろう。
大鹿村周辺の山里とニホンジカの関係を表現したAI生成イメージ。実在する特定地点を再現したものではありません。
だが「数百頭が一か所」は、いつもの風景ではない
2026年8月1日、物資輸送中のヘリコプターから撮影されたのは、標高約1900メートルの斜面に集まった大量のニホンジカだった。報道では数百頭とされ、環境省の自然保護官も想像以上の数だったと説明している。
ここは間違えたくないところである。大鹿村周辺に鹿が多いことと、毎日のように数百頭の群れが見られることは別の話だ。今回の映像は、もともと鹿の多い山域で、現在どれほど高密度の個体群が存在しているかを一気に可視化した映像と見るべきだろう。
2026年8月に大鹿村と伊那市の境付近で報道されたシカの大群をもとに構成したAI生成イメージ。実際の報道映像の再現ではありません。
南アルプスだけで推定約5万頭
数字を見ると、映像の意味が変わってくる。長野県の第6期ニホンジカ管理計画によれば、2024年度末の県内の推定個体数は中央値で22万1230頭。推定には幅があり、約14万9000頭から約33万7000頭とされている。
そのうち南アルプス管理ユニットの中央値は5万392頭、平均生息密度は1平方キロメートルあたり21.12頭と推定されている。これは大鹿村だけに5万頭いるという意味ではないが、大鹿村を含む南アルプス一帯が県内でも高密度地域の一つであることは明らかだ。
しかも長野県内の推定個体数中央値は、2016年度末の約15万頭から2024年度末には約22万頭へ増えている。わずか8年ほどで、およそ7万頭増えた計算になる。
鹿が増えると、山は静かに食べられていく
鹿が道路へ出てくる、畑の野菜を食べる。それだけなら人間側の被害として理解しやすい。しかし南アルプスで起きている問題は、もっと奥深い。
ニホンジカは高山植物や若い木、枝葉、樹皮などを食べる。数が多くなると、好物だけを食べて終わらない。環境省によれば塩見岳では、かつて高山植物のお花畑だった場所で採食と踏圧が続き、植物そのものが失われ、山肌がむき出しになった場所まで確認されている。
植物が減れば、単に景色が寂しくなるだけではない。地面を覆う植物や根が失われれば表土が流出しやすくなり、一度裸地化した高山帯では自然回復も難しくなる。シカによる植生変化は昆虫や鳥など、ほかの生物にも波及する。
ニホンジカの採食や踏圧による植生変化を分かりやすく表現したAI生成の概念イラスト。同一地点の実際のビフォー・アフター写真ではありません。
年間9000頭捕っても、それで終わらない
そこで長野県は、南アルプス管理ユニットだけで年間9000頭の捕獲目標を設定している。県全体では年間4万頭だ。2024年度には実際に県全体で3万3435頭が捕獲された。
それでも県の試算では、現在の捕獲水準を続けるだけでは一部地域で個体数が増える可能性がある。さらに衝撃的なのは、県全体の個体数を明確な減少傾向へ転じさせるには、年間約5万頭の捕獲が必要と試算されていることである。実際の第6期計画では、捕獲体制など現実面を考慮して4万頭を目標としている。
鹿が増えた理由も一つではない。環境省は、積雪量の減少、餌になる植生の増加、耕作放棄地の増加、狩猟者の減少など、複数の要因を挙げている。鹿はもともと繁殖力の高い動物である。人間が山から離れ、冬の死亡率が下がり、捕獲圧まで弱くなれば、個体数が増えやすい条件がそろってしまう。
南アルプスで実施されている防鹿柵などの植生保全対策をイメージしたAI生成イラスト。実在する特定地点や作業現場を再現したものではありません。
「大鹿村だから鹿が多い」で笑えなくなってきた
大鹿村の「大鹿」は、大きな鹿が大量にいたから付いた名前ではない。しかし、その元になった鹿塩という土地には、昔から鹿にまつわる伝承があり、鹿そのものも身近な存在だった。
そこへ現在、南アルプス全体で推定約5万頭という規模のニホンジカが生息している。そして山奥では、高山植物を柵で囲い、鹿を捕獲し、裸地化した場所の土壌流出まで人間が防がなければならなくなった。
鹿がいる自然と、鹿が多すぎる自然は同じではない。 数百頭の群れの映像が不気味に見えるのは、鹿そのものが怖いからではない。自然豊かな山の中で、人間の目に見えないところから生態系のバランスが変わり始めている。その一場面を、偶然ヘリコプターが空から見つけてしまったからではないだろうか。
【編集者が思うこと】
「大鹿村周辺で鹿の大群が目撃された」と聞いた時は、俺も最初は「名前そのままじゃないか」と思った。でも調べてみたら、そんな呑気な話ではなかった。昔から鹿がいる山と、毎年何千頭も捕らなければ維持できない山では意味がまるで違う。しかも山奥の出来事だから、普段暮らしている俺たちにはほとんど見えない。今回の数百頭の映像は、突然鹿が現れた映像ではなく、ずっと進んでいた変化がたまたま人間の目に見えた瞬間なのだと思う。かわいい野生動物も、増えすぎれば自然を壊す側になる。自然というのは、思った以上にバランスの上に成り立っている。
参考資料
- 大鹿村「大鹿村の沿革」 ― 大河原村・鹿塩村の合併と大鹿村成立の沿革。
- 大鹿村「温泉情報―鹿塩温泉と小渋温泉」 ― 鹿塩地区の塩泉と建御名方命・弘法大師にまつわる伝説。
- 日本歴史地名大系「鹿塩村」 ― 『吾妻鏡』文治2年(1186年)の「大河原鹿塩」の記録。
- 長野県「第二種特定鳥獣管理計画(第6期ニホンジカ管理)」 ― 推定個体数、管理ユニット別生息密度、捕獲目標など。
- 環境省「南アルプス国立公園の取組み」 ― 防鹿柵、ニホンジカ捕獲、裸地化した場所の土壌流出防止対策。
- 環境省 関東地方環境事務所「塩見岳での高山植物保護作業」 ― ニホンジカの採食・踏圧による高山植物の消失と裸地化。
- 環境省「ニホンジカが増加した理由」 ― 積雪量の減少、耕作放棄地、狩猟者減少など増加要因の整理。
- NBS長野放送「地面を覆い尽くすシカの大群『数百頭』」2026年8月31日 ― 大鹿村と伊那市の境で撮影された数百頭規模のニホンジカ。
